金刀比羅宮のご鎮座は神代のころと伝えられ、古くはご祭神大物主の神一柱でした。
永萬元年(1165)崇徳天皇の御霊を合わせ祀ってからは二柱のご祭神になり、社頭は益々にぎわうようになりました。
しかし、室町時代八代将軍足利義政のころになると天下は乱れ、諸国の人々は苦しい生活に追われ、それに加えて年々大風や洪水も続いたので作物が実らず、悪病が流行して死んでしまう人も数多くなりました。
このような時、11年間も続いた応仁の乱が起こり、世は戦国時代へと進んでいきました。
教祖 厳魂彦命はこの戦国時代、生駒家の家臣 井上四郎右衛門の子として生まれ、早くから和漢神仏の学を修め、「宥盛」と称し高野山に入り修行をして第四代象頭山金毘羅大権現別当金光院主となりました。
このころ、当社の境内も荒れはてていましたので、教祖は全身全霊を大神さまに捧げて日夜社頭の復興に心をくだきました。そのかたわら日本国内を巡り民衆を案じいたわり、人の道を説き、金刀比羅の大神さまのご神徳を広め、病者や悩める人々を救いました。
このような教祖の努力によりまして当社に参詣する人々が続々と押し寄せたものの、永く続いた戦いのため民衆が救われることはありませんでした。
慶長18年癸丑正月6日、暗雲たれこめ風雨荒れ狂う日、教祖は金刀比羅の大神さまの力をかりて国内が安らかに治まるよう願い、また自ら神となりて民衆を案じいたわるために〝三代後には生まれ変わって、琴平山を揺るぎ無くしっかりした状態にする〟と予言を遺してお亡くなりになりました。
その後、教祖は神域内の観音堂に祀られ、三代後の宥典別当の時になりますと、予言どおり金刀比羅宮の境内は立派になり益々発展しました。
明治維新後、観音堂が廃止されてからは、お名前を「厳魂彦命」と改め、厳魂神社にお祀りしています。