〜 蹴鞠について 〜
鞠懸 〜 春
鞠懸 〜 秋
鞠懸と式木と精大明神
蹴鞠を行う会場のことを鞠庭(まりば)といい、その中のコートにあたる場所を鞠懸(まりがかり)といいます。鞠懸は、15メートル四方の平坦な地面で、その四隅には式木(しきぼく)という4本の木、松(西北)・柳(南東)・桜(北東)・楓(南西)が植えられています。式木の内側の四隅と中央の土中には瓶が埋められています。鞠を蹴る音をよく鳴らすための工夫です。
式木は、蹴鞠の神さまである精大明神(しらげだいみょうじん)が宿る依代(よりしろ)です。神さまが座りやすいように、どれも二股の木です。
自ら蹴鞠の“精”と名乗った精大明神。その顔は人ですが、手足身は猿なのです。蹴鞠の精を鞠庭に迎えるために、猿の好む木を植えたのが式木なのです。
枝鞠
解鞠の儀
解鞠の儀
当日、蹴鞠を始める前に、枝鞠(えだまり)の神聖な鞠を鞠庭(まりば)に解き放つ儀式「解鞠の儀」を行います。枝鞠とは、榊(七夕鞠は梶)に鞠をつけたものです。
「解鞠の儀」は、蹴鞠の技に長じた者、または一座の長老が努めます。 その作法は、家々に独自のもので、古来、秘伝として口伝により伝えられます。
蹴鞠
蹴鞠
鞠懸を整える箒目
蹴鞠
金刀比羅宮では6人で蹴鞠を行います。その6人の集まりを「座」といい、各人を「鞠足」といいます。座が鞠懸にそろうと小鞠(こまり)といって、試し蹴りをします。
小鞠を終えると、いよいよ蹴鞠の始まりです。蹴鞠は、座が1つの鞠を地面に落とさないように蹴り続けることです。右足のみで蹴る決まりになっています。
4本の式木の前に構える4人が主体となり鞠を蹴り、桜と柳・松と楓の間に構える2人が逸れた鞠を持ち直す役割をします。
座が一体となり、一抹の邪念も一片の敵愾心もなく、長く蹴り続けることで和の精神を養います。蹴鞠は勝負を競うものではありません。天下泰平・国家安泰・五穀豊穣など、平和を象徴する技なのです。
蹴鞠を長く続けるには、掛け声が重要です。次に鞠を蹴ろうとする鞠足は、必ず「アリ」「アリヤー」「オー」などの掛け声を発しなければなりません。上手く続く場合は、掛け声・鞠を蹴る音・座の動作、すなわち音と象(かたち)が優美な調和をなします。
1座が終わる毎に箒目と呼ばれる者が鞠懸を整え、次の座に備えます。
装束
鞠沓
その形が鴨の嘴に似ていることから鴨沓ともいわれます。
装束
鞠足の装束は、上着を鞠水干(まりすいかん)、袴を鞠袴(まりばかま)または葛袴(くずばかま)、履物を鞠沓または鴨沓、扇を鞠扇(まりおうぎ)といいます。 烏帽子は、立烏帽子・侍烏帽子・風折烏帽子の3種類があります。
古くは装束はとくに定まっていませんでしたが、後鳥羽上皇以後、運動に便利なかたちに制定され、鎌倉時代に色鮮やかなものになり、その後、次第に現在のような上品にして優美なものになりました。どのような装束を着けるかは、鞠足の地位や技の程度によって色目(いろめ)などの定めがあります。
鞠
鞠
蹴鞠に用いる鞠は、なめした鹿皮を馬皮で縫い合わせたもので、中は空洞です。形を整える際には、中に小麦を詰めます。表面にはニカワ・白色の御粉・卵白が塗り重ねられています。
奥書院「全生亭鞠庭之跡」
昭和初期、図書館の庭での蹴鞠の様子
現在の図書館の庭
鞠懸の跡が残っています。
歴史
蹴鞠の歴史は古く、西暦500年頃、仏教と共に伝来し、第31代用明天皇の御代に初めて日本で行われたと古記にあります。中大兄皇子と藤原鎌足が、蹴鞠を機縁に大化改新を成就したことはよく知られています。
蹴鞠は後鳥羽上皇の御代に殷盛を極め、その後、盛んに行われるようになり、天皇から町人まで様々な人々が楽しむものとなりました。女性も盛んに蹴鞠を楽しみ、清少納言は枕草子に「あそびわざは小弓、碁、さましあれど、鞠もをかし」と記しています。
金刀比羅宮の蹴鞠は江戸時代まで奥書院の庭で行われていたと思われます。天正19年(1591)4月13日作と記された古い瓶が土中から発見され、蹴鞠の会が催された記録も残されています。
明治以降、金刀比羅宮の蹴鞠は廃れましたが、昭和7年に再興しました。 戦時中は「送別鞠会」が行われたという記録が残っています。その頃は図書館の庭が鞠庭でした。
昭和49年、金刀比羅宮の蹴鞠は香川県の無形文化財に指定されました。
令和元年7月7日[日曜日]の「七夕鞠」の様子
平成29年5月5日[こどもの日]の「奉納蹴鞠」の様子
※ゴールデンウィークの記事中に蹴鞠の写真を掲載しています。
YouTube「蹴鞠」