円山応挙(享保18年〔1733〕-寛政7年〔1795〕)は、写生派の祖と呼ばれ、写生主義を唱えて江戸〔1603-1867〕後期の画風を変革した京都画壇の大御所、円山派の始祖。その影響は今日まで及びます。享保18年〔1733〕丹波国穴太村(現在の京都府亀岡市)の農家に生まれ、15歳の時京都へ出て狩野派の石田幽汀に師事しました。写実を基本とした自然観照を画面に定着させる新画風により世に迎えられました。通称主水、号は夏雲、仙嶺などを用いましたが、明和3年〔1766〕33歳以降、応挙と号して終生一貫しました。後半生には、徹底した写実主義に装飾性を加え、特に屏風や襖絵などの大画面に優れた効果をあげました。
【参考文献】
「京都画壇250年の系譜展」京都新聞社アートワン発行
「水墨画の巨匠 第十巻 ”応挙”」執筆 安岡章太郎、佐々木丞平