由緒
古代、瀬戸内海に浮かぶ島であった頃の琴平山の想像図
〝こんぴらさん〟の名で親しまれている金刀比羅宮(ことひらぐう)の御本宮は、琴平山(別名「象頭山」)の中腹に鎮まります。
小西可春編「玉藻集(たまもしゅう)」七巻本〔延宝5年(1677)〕の「讃陽名所物産記 第二」には「此山に鎮座三千歳に及と云々。」とあります。「金毘羅山名所圖會」〔文化年間(1804-1818)〕には「金毘羅大権現當山に御鎮座事は、遠く神代よりの事にして、幾百萬年といふ事をしらす。」とあります。
初め大物主神を祀(まつ)り、往古は〝琴平神社〟と称しました。
中古、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)の影響を受け、「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」と改称し、永万元年(1165)に相殿に崇徳天皇を合祀しました。
大物主神
大物主神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟、建速素盞嗚命(たけはやすさのおのみこと)の子、大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)で、農業・殖産・医薬・海上守護など広汎な神徳を持つ神様として全国の人々の厚い信仰を集めています。
「神代の琴平山」〔琴陵光熈、金刀比羅宮社務所文事課、昭和16年(1941)〕によると、「神代の昔琴平附近は海岸で、今の琴平の地は良い港であつた。それ故 大物主大神(大國主神)が國土御經營に當り此良地勢を利用せられ山上に行宮を造らせ給ひ、之を策源の中心として表日本を御經營遊ばされたのである。其行宮の蹟に神靈を鎭祭し奉つたのが即ち金刀比羅宮である。」との伝説があります。
つまり、当時、琴平山は瀬戸内海に浮かぶ島であり、そこに大物主神は行宮を造られたのです。
その行宮跡に大物主神を奉斎したと伝えられています。現在も、琴平山の鬱蒼とした樹林の各所には、往古の遺跡と思われる場所があり、境内のそこかしこで大物主神のご偉業が偲ばれます。
また、そのような謂れもあり、今もなお〝海の神様〟として広く親しまれています。
崇徳天皇
崇徳天皇〔元永2年-長寛2年(1119-1164)〕は、第75代天皇〔在位 保安4年-永治元年(1123-1141)〕です。諱(いみな)は顕仁です。
保元の乱〔保元元年(1156)〕の後に讃岐国(現在の香川県)にて金毘羅大権現を崇敬し、境内の「古籠所」に参籠されました。また、その附近の「御所之尾」を行宮にされた、と伝えられています。
讃岐国にて崩御された翌年の永万元年(1165)、金毘羅大権現は象頭山(=琴平山)に神霊を迎えて、御本社相殿に「崇徳天皇」として奉斎しました。
崇徳天皇の神霊を奉斎してからの金毘羅大権現の神威は、以前にも増して輝き渡りました。
江戸時代、元禄末に描かれたと伝えられている「金毘羅祭礼図屏風」
近世、〝こんぴらさん〟の神威は益々著しく、江戸時代中頃の桃園天皇の御代、宝暦3年(1753)12月、金毘羅大権現を勅願所とすることが仰せ出され、同10年(1760)5月、日本一社の綸旨(りんじ)を賜わり、明治初年(1868)に至るまで毎年春秋の2回、禁中より御撫物(おなでもの)が別当に下賜され、宝祚悠久(ほうそゆうきゅう)を祈願していました。
このように金毘羅大権現は歴朝の尊崇を受け、また、諸国の大名武将から一般庶民に至るまで広く信仰され、全国的な航路の発展とともに航海者の信心を集め、全国に勧請(かんじょう)されて金毘羅講が各地におこり、その神徳はいよいよ高まりました。
現在の御本宮
明治元年(1868)、神仏混淆(しんぶつこんこう)が廃止され、金毘羅大権現は元の琴平神社に復り、同年7月に宮号を仰せられて「金刀比羅宮」と改称し、現在に至っています。
【参考文献】
「玉藻集」小西可春、延宝5年(1677)
「金毘羅山名所圖會」文化年間(1804-1818)
「神代の琴平山」琴陵光熈、金刀比羅宮社務所文事課、昭和16年(1941)
「こと比ら 16号 〜 お山信仰と天狗考」、金刀比羅宮、昭和36年(1961)
「金刀比羅宮」琴陵光重、学生社、昭和45年(1970)
「日本歴史地名大系」平凡社、昭和54年-平成16年(1979年-2004年)
「集中講義 金刀比羅宮について(4)」西牟田崇生、金刀比羅宮、平成22年(2010)

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